| 塾ホームページへ |

塾ブログ〜上智スクール講師 渡辺勇治

 ◇2024年11月7日

歴史散歩〜柴又から、堀之内貝塚まで

 11月初旬の、秋のうららかに晴れた一日、気持ちが良いので、健康のためにも、と思って、ちょっと散歩に出ようと思いました。

 私の教室は、柴又駅のごく近くです。帝釈天の参道を歩いていくと、柴又帝釈天があって、その境内の裏にまわると、すぐに江戸川の河川敷に出ます。川辺には「矢切の渡し」があります。

 昔、矢切の渡しは、江戸川をはさんで、柴又と矢切の両岸に農地をもつ農民が、江戸幕府から特別に渡河を許された渡しだったそうです。もちろん今では、実用的な用途はなく、観光用に存続しています。「多摩川の渡し」の廃止後、東京に残っている最後の、手漕ぎの「渡し舟」です。これが、今でも残っているのは、細川たかしの歌う「矢切の渡し」が大ヒットしたせいでしょう。

矢切の渡し
矢切の渡し

 

 そうだ、今日は、久しぶりに、渡し舟に乗って、江戸川の向こう岸の、矢切に渡って、そこから、また、久しぶりに「堀之内貝塚」まで散歩してみよう、と思いました。

 堀之内貝塚というのは、縄文時代後期から、晩期(4000年前〜3000年前)の遺跡で、明治期に発掘された、東京から最も近い縄文貝塚になります。ここで発掘された土器は、「堀之内式」と呼ばれています。

 柴又からは、直線距離で、ほんの3キロしか離れていませんが、川を隔てて交通の便がわるく、辺ぴなところでした。でも、30何年か前に「北総線」が新設されて、今では、京成「高砂駅」から、たった3駅、「新柴又」からはわずか2駅の、「北国分」で下車すると、そこから歩いて、ほど近いところですから、実に行きやすくなりました。

 堀之内貝塚は、北国分の駅から歩いて5分ほど、ちょっと小高い丘、(海抜20メートルくらい)の上にあります。「貝塚」がこんな高台にあるということは、縄文時代は、温暖な時期で、そこまで海面が上がっていたということです。

 その当時は、葛飾区の柴又を含め、東京低地はぜんぶ海の底でした。たった4000年くらいでそんなに大きな海面の変動があったというのは、なんだか驚きです。

 

柴又から、矢切、野菊の墓文学碑へ
地図

    

 さて、散歩日和です。

 電車に乗らず、わざわざ、のんびりと、矢切の渡し舟に乗って行くことにしました。細川たかしの「矢切の渡し」がヒットしていたころ、船頭さんは、杉浦さんというおじさんでした。当時は、歌がヒットしたせいで、帝釈天に来た観光客たちが、ついでに渡し舟にも乗って、舟は賑わっていました。

船頭の杉浦さんは、手漕ぎの櫂をつかって、ゆっくりと漕いでいました。手漕ぎですから、対岸に着くまで、15分くらいかかっていたと思います。私が柴又で塾を開いたのも、ちょうどそのころ(約40年前)のことでした。

 でも、今は、若い船頭さんに変わっていて、手漕ぎではなく、モーターを使って舟をうごかすので、五分間くらいで、らくらくと向こう岸に着いてしまいます。ちょっと風情がなくなったなあ…、と感じました。

 向こう岸の矢切に着くと、今でも、河川敷から、まだネギ畑の、田舎の風景が残っています。そこから十分ほど田舎道を歩いて高台に登って行くと、ひっそりと「野菊の墓」の文学碑が立っています。矢切地区は農村、田園地帯で、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の、悲恋の舞台になった、ゆかりの場所だということです。

 

野菊の墓 文学碑
野菊の墓文学碑

 

 「堀之内貝塚」は、そこから、さらに1.5キロほど、歩いて20〜30分ほどのところにあります。そこで発掘された縄文遺跡を展示した、市川市の「考古博物館」があります。私も、三十数年前に一度ここを見に来たことがありました。でも、それからだいぶたつので、今では建物もかなり老朽化していました。

 貝塚は、東西220メートル、南北120メートルくらいの範囲に分布し、小高い丘の、雑木林の中にあります。夏にはちょっとした森林浴が楽しめる、いこいのスポットです。林の中には小道があって、子犬を連れて散歩している近所の人や、木陰のベンチで寝そべっている人が、ぽつりぼつりといました。

 ここに来ると、いたるところに「貝がら」が見つかる、と聞いていたので、林の中の地面を探してみると、落ち葉や、どんぐりが落ちている地面の陰に、本当に、いくつか貝がらを見つけることができました。平べったい貝や、巻き貝の殻が、土のなかに隠れていました。「これ、本当に、縄文人が食べて捨てた、貝の殻…?」と思うと、なんだか不思議な気がしました。

堀之内貝塚
堀之内貝塚写真

 

 考古博物館の中には、発掘された「縄文土器」がたくさん展示されていました。日本史の教科書でよく見る、つぼ型の土器です。これは、でも、ちょうどヤカンに似た形をした土器もあって、縄文人と言っても、生活に便利なものを、工夫して作って、使っていたのだと、その知恵の高さに感心しました。

 大きなガラスのケースの中に、一体の人骨が展示されていました。頭蓋骨から、鎖骨、大腿骨、そして、足の指先までつなげた、一体の人骨でした。貝塚で発掘された、身長158センチくらいの、比較的若い、女性の人骨、と書かれていました。足の骨に損傷が見られ、生存時には歩行が困難だったろう、とも書かれていました。

縄文土器
土器

 

 縄文期の人口は、どのくらいだったのだろう…、と思って調べてみました。

 氷期の更新世が終わって、完新世(今から一万年前)になると、温暖化して、人口も増え、縄文最盛期には、日本全国で26万人までいたそうです。クルミの実や、ナラ、トチの実など、食料が豊かだったのでしょう。人口分布では、西日本よりも、関東地方を中心に、圧倒的に東日本に多く(9割以上)分布していたと言われています。それが、縄文の晩期になると、再び気候が寒冷化して、食料が乏しくなるとともに、人口は8万人くらいまで激減したと推定されています。やがて、水稲農法が始まる弥生時代へと移行します。

 堀之内貝塚には、「考古博物館」に隣接して、「歴史博物館」もあります。奈良時代には、このすぐ近くに、下総国の「国府」の国庁があったからです。当時は、葛飾区の柴又や、東京低地まで、下総国に属していました。

 その周辺は、今でも「国府台」と呼ばれていますが、今では宅地化が進んで、遺物の発掘も難しくなってしまいました。山川の高校日本史の教科書には、下野国庁の復元模型の写真が載っていますが、それと似たような国庁の建物があったのでしょう。

 歴史博物館には、古墳時代の鉄製の鎧から、奈良時代の国庁の役人が着ていた衣服、使っていた食器類、調度類などが、復元されて展示されていました。日本史の教科書では、縄文・弥生・古墳時代、飛鳥・奈良時代まで、ひっくるめて、わずか50ページ足らずです。歴史用語や、年号の羅列で、実際の人々の生活の様子などは、想像もできず、実感がわきません。教科書では、歴史は、単なる暗記物としか見えません。

 でも、博物館で実物の縄文土器や、縄文人の実物の骨を実際に目にして見ると、「歴史」が、現実にあったものとして、生々しく見えてきます。あの白骨の女性は、生きていたころ、環状集落の中で、どんな生活を送っていたのだろう…、と想像を膨らませることもできます。

 駿河台の明治大学まで行くと、構内に立派な考古博物館がありますが、葛飾区の近場にも、こういう博物館があります。京成の電車に乗れば、高砂からわずか7〜8分です。中学生や、高校生は、ぜひ見に行かれるとよいと思いました。こんな近くに、遺跡があったんだ、と思うと、歴史が、ぐっと身近に感じられてくるはずです。

□

葛飾区柴又で長く、塾の先生をしています。

〇経験を活かして、ひとりひとり、丁寧に、勉強のしかたを教えます。

| 塾ホームページへ |