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上智スクール 塾コラム

 伊藤左千夫『野菊の墓』〜中3受験生の皆さんへ

野菊の墓

 まもなく受験シーズンになります。木枯らしの中、中三の受験生にとって、いよいよ大事な時期となりました。

 志望校に合格するために、がむしゃらに勉強している最中と思います。そして、合格できるかどうか、不安にかられる時期でもあります。今は大人になっている、学校や塾の先生も、もちろん皆さんのご両親も、みな、昔、同じ苦しい経験をしています。ですから、皆さんの今の不安な気持ちはよくわかります。

 受験勉強時は、勉強するだけで忙しく、なかなか他のことに目が向けられませんが、ちょっと、息抜きのコーヒー・ブレイクに、軽い読み物などいかがでしょうか。

 苦しい時、多感な青春時代に読んでおくと、心に残る読書というものがあります。はるか昔のことですが、先生(塾講師)も、高校受験の頃、受験雑誌のコラムに、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が、“中三の皆さんにお薦め”と紹介されていたので、「それならば」と、読んでみました。今では懐かしく思い出されます。

 わたしは皆さんに、日本の有名な小説として、伊藤左千夫の「野菊の墓」をお薦めしたいと思います。国語の教科書にもよく取り上げられている不朽の名作です。文庫本の短編ですから、一、二時間で読み終えることができるでしょう。

 明治39年の作品ですから、農村の風景や風習、人間関係など、時代背景は今とはずいぶん違いますが、悲恋の物語は、きっと若い皆さんの心を打つものがあるでしょう。同時代の「吾輩は猫である」の、夏目漱石から絶賛されたと伝えられています。

 小説の一ページは、
「僕の家というは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村といっている所」
…と、主人公の政夫が、民子との淡い初恋を回顧するところから、始まります。

 旧家の、比較的裕福な家の15歳の政夫と、二歳年上のいとこの民子は、小さいころから仲のよい二人でした。民子は、政夫の病弱な母親の世話などをするために、市川の親戚の家から政夫の家に手伝いにきていました。あまり仲のよい二人だったので、近所の人たちから変なうわさ話がたったため、二人は母親から、少し遠ざかるように、注意されてしまいます。でも、注意されると、かえって二人はお互いを意識するようになってしまいます。

 ある日、母親の使いで、たまたま二人で野山に出かけることになったのですが、家に帰るのが、つい夜遅くなってしまいました。そのため、近所の人たちから怪しまれることになってしまい、世間体を気にする家族の言いつけで、政夫は、予定より早く、千葉の中学に寄宿するために村を離れることになり、二人は別れ離れにされてしまいます。

 

 その間に、民子に縁談の話がもちかけられます。比較的裕福な家との縁談とはいえ、民子はお嫁に行きたくはありません。それでも、両親の強い説得で、無理にお嫁に行かされることになってしまいます。でも、民子は嫁に行った先で、まもなく病気で死んでしまいます。

 二人は永遠に結ばれることはなかったのです。民子が死ぬ間際に、手に大切に握りしめていたものは、政夫の写真と手紙でした。それを見た両親ははげしく後悔して、政夫に詫びます。政夫は民子の墓に行き、そのまわりに野菊の花を一面に植えました…。

 さて、二人が、田園の風景の中で、互いに目覚めた淡い恋心は、こんなふうに描写されています。

政夫 「民さんはそんなに野菊が好き…道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子 「政夫さん…私野菊の様だってどうしてですか」
政夫 「さアどうしてということはないけれど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
民子 「それで政夫さんは野菊が好きだって…」
政夫 「僕大好きさ」

 しばらくした別の場面では、りんどうの花を手に取った民子が、
「わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになった。」
と言って笑います。

政夫 「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
民子 「政夫さんはりんどうの様な人だ」
政夫 「どうして」
民子 「さアどうしてということはないけど、正夫さんは何がなしにリンドウの様な風だからさ」

 たがいに意識しながら、言葉少なく、恥じらう、そういう二人が離れ離れにされてしまう運命に、若い皆さんなら、胸にキュンとくるところがあるでしょう。

 作者の伊藤左千夫は、文士仲間の朗読会で、これを涙ながらに読み上げたことで有名です。この作品は、出版当時から評判がよいものでした。また、のちの昭和30年(1955年)には、木下啓介監督によって、「野菊のごとき君なりき」という名で映画化されたことでも有名です。また、昭和56年(1981年)には、デビュー当時の、松田聖子の主演で再映画化されています。

野菊の墓 文学碑
野菊の墓文学碑

 ところで、小説の舞台となった松戸の「矢切」と言えば、柴又からは、江戸川をはさんで、ごく近い場所です。

 柴又帝釈天の裏の河川敷から、東京に残された最後の渡し舟である、「矢切の渡し」に乗ると、矢切には今でも田園が残っています。少し歩くと、小高い丘があって、「野菊の墓」の文学碑がひっそりと立っています。これは昭和40年(1965年)に建立されたもので、伊藤左千夫の門人、土屋文明の筆により、文学碑の題名と、抜粋された小説の一部が刻まれています。

執筆(2024-12) 上智スクール講師 渡辺勇治


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